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〈「それぞれの四季」「くらしの周辺」20年(下)〉世代を超える繋がり、互いに刺激

2018年05月10日 15:50 主要ニュース 文化・歴史

「今を生きているという幸せ」

詩集「朝鮮学校無償化除外反対アンソロジー」(朝鮮語版)の朗読会で。左が河津聖恵さん、右が許玉汝さん。(ソウル、11年11月27日)

色んな人に声かけられ

女性同盟京都府本部のオリニサークル責任者の姜美蘭さん(37)は、京都初級と同幼稚園に通う長男全涼さん(9)、次男瞬さん(7)、三男新さん(3)の母。また、京都初級の舞踊部の講師を務めつつ、自らも文芸同京都の舞踊サークルで日々、練習を重ね舞台に立ってきた。その目まぐるしい日常を昨年の半年間、「それぞれの四季」でコミカルに描き、読者の反響を呼んだ。京都・伏見支部のオンマオリニサークルの責任者(当時、現在は女性同盟京都本部の同サークル責任者)としての役割、そのうえに、2年に一度の文芸同朝鮮舞踊コンクールという本番を半年後に控える怒涛の日々…。初級部3年の長男、1年生に進級する次男、やんちゃ盛りの3男の日常を明るく、ユーモラスに描いた。

「いろんな人から読んだよと、声をかけられてうれしかったです」と姜さんの表情は屈託がない。10年前、結婚し、愛知から京都に移り住んで、友達も少ない環境の下、心の拠り所となったのは支部だったという。「夫が当時朝青活動をしていた事もあり、出産前は朝青支部へ、出産してからは女性同盟支部の子育てサークルへ顔を出した。同じオモニとしての悩みを話し合ったりはもちろん、同じ年頃の赤ちゃんを連れて遊ばせるうちに、毎回参加するのが楽しみになった」と当時を振り返る。

顔を合わす回数が増えれば自然と親しみがわく。4歳の時長男が自閉症と診断された時も、生まれた時から長男を知るオンマオリニサークルのメンバーたちが親身に話を聞いてくれたことで乗り越えられたと話す。「ピアノを楽しんだり、漢字や信号にハマッているのをみんなが見守ってくれている」と笑顔で話す姜さん。さすがに自分の出演する舞踊コンクールと、教え子たちが出演する舞踊コンクールの日程がほぼ重なったときは、愛知の実家に3人を預け、急場をしのいだと打ち明けた。

「オモニにはいつも助けてもらっている。『それぞれの四季』を書いたときも、支部や文芸同の仲間たちがSNSでアップしたり、共有してくれて励みになった。朝5時に起きて5個弁当作って、夜9時に子どもを寝かせつけるまでは気が抜けないのは確か。でも、子育て、仕事もして、趣味も楽しむそんな素敵な先輩女性たちが周りにいっぱいいる。何より、70年以上も続いたウリハッキョを守るという日常のなかで、今を生きているという幸せがある。この喜びを子どもたちにも伝えていきたい」とキッパリ話す。

姜美蘭さんと子どもたち(第38回近畿地方朝鮮初級学校サッカー選手権大会で、4月15日)

人生の喜怒哀楽は新報と共に

人生の喜怒哀楽は、朝鮮新報とともにあったと話すのは文芸同大阪顧問の許玉汝さん(69)だ。昨年は1967年4月、大阪歌舞団の団員として活動家としての人生をスタートさせて50年目だったという。「82年からは約30年間、教壇に立ち、2010年、東大阪中級を退職。その後も学童保育に6年携わってきた。その傍ら、多くの仲間たちと一緒に大阪文芸同の活動も43年間続けてきた。その間、新報に朝鮮語の詩、エッセーなどを投稿し続け、各地の同胞たちから『新報はあんたの私書箱と違うで』と呆れられたことも」。許さんにとって新報は、ネットも含めると日本列島はもとより南朝鮮、世界中に散在する同胞や教え子たちを結んでくれる連絡網だと話す。

朝鮮語の教師として、意識的に生徒、次世代の教員、保護者たちに母国語の大切さを説き続けた許さん。「ハラボジの口癖だった。言葉を失うと、国や民族が奪われてしまうと」。そんな、許さんに転機が訪れたのは、詩人・河津聖恵さんとの出会いだった。

河津さんの呼びかけに応えて日本語による詩集「朝鮮学校無償化除外反対アンソロジー」作りに加わった許さんら24人の同胞詩人たち。わけても、許さんが抱えていた「日本語アレルギー」を氷解させてくれたのが河津さんの類稀な情熱だった。在日朝鮮人に向けられる日本社会の底とてっぺんからの言葉の暴力-。河津さんは「当事者にとっては、想像を絶する痛みだろう。言葉の最先端を担う詩人としての責任を思い知らされた」と語ったという。アンソロジーの共同制作過程で、「国籍や民族の差ではなく、他者との間に豊かなつながりを作りだそうと、日々言葉の可能性を追求している河津さんの姿勢に心打たれた」許さん。2カ月という短い間に「60年分の会話」をし、心底通じ合う日本の友と出会えた喜び。「同じ時空、同じ志で一つのものを作る連帯感の強さは、朝・日間の隔たりをたちまち越えた」と振り返った。

「初めは日本の方と話すだけでドキドキしていた」が、河津さんとの出会いでそれを克服。12年から始まった大阪での高校無償化を求める火曜日行動でもスタッフ8人の日本人の仲間たちと写真を撮ったり、記事をブログにアップするなど広報活動を引き受けてきた。この時始めたブログには40万人の閲覧者がいる」と胸を張った。

二つの言語を駆使しながら、さらなる活動の範囲を広げたいと意欲満々。「女性欄の『それぞれの四季』で若い女性やオモニたちの活躍ぶりを知り心底、頼もしさを感じている。私も年齢や所属、国籍といった壁をらくらくと超えて、いつまでも『生涯現役』の精神で活動を続けていきたい」と語った。

(朴日粉)

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