京都府宇治市伊勢田町ウトロ51番地。1941年、日本の侵略戦争遂行のための軍用飛行場建設に動員された朝鮮人は、戦後何ら保障のない中で、厳しい生活を余儀なくされ、20年にわたり「強制立ち退き」の危機にさらされ続けた。そして現在、長年の懸案事項であった「土地問題」が決着し、「ウトロ街づくり」事業が推進されている。ウトロの今を追った。

共生の思いが書かれた看板
60世帯、約150人が暮らすウトロ地区。80年代まで労働者が使っていた飯場や人影のない朽ち果てた家々。時が止まったかのようなその風景は、戦後の同胞たちの生きざまを色濃く残している。
戦後、ウトロの所有権は「日産車体」に移された。そこからウトロの土地問題が始まる。その所有権は87年、住民に知らされることなく「西日本殖産」に転売され、89年、同社は住民らに立ち退きを要求する訴訟を起こした。2000年11月、最高裁での上告棄却決定で、住民側が敗訴。「強制立ち退き」に抗する住民たちの長い長い闘いが始まった。

80年代まで使われていた飯場の跡
「地上げ反対!ウトロを守る会」として30年以上もウトロと関わってきた田川明子さん(71)は、裁判で証言台に立った「おばあちゃん」の姿を語る。
「ぎっしりと埋まった傍聴席を前に、公の場で初めて自分たちの辛い境遇を聞いてもらえる。おばあちゃんは張り切って、どうしてウトロに住むようになったか、いかに悲惨な暮らしだったかを証言した」。しかし、裁判所は問題を「単なる土地所有権の問題」ととらえ、政府や企業、自治体の戦後補償責任に触れることはなかった。「民事裁判だから、どちらが悪いということはないんだよといくら話しても『被告』と呼ばれることに強い怒りを感じ、また、証言台に立ったが『宣誓書』の文字が読めず、裁判所職員に次いで復唱するおばあちゃん。傍聴席から、その小さい背中を見つめ、私は日本社会で触れ合うことのなかった人々の人生を知りました」。
植民地支配による生活破壊によって、生きる術を失い、海を渡った1世。「行けば家があてがわれる」と聞き、また徴用から逃れるため飛行場建設に従事するが、それは到底家と呼べる代物ではなかった。そして戦後、同胞たちは、社会保障も得られない、幾重の苦しみと差別の中で、コミュニティを築き、生活した。その住み慣れた「家」が奪われる。危機感は、強固な反対運動へとつながった。
「2度目やで。1度目は、国ごと地上げに会ったわけやないか(日本による植民地支配のこと)。これでわしらは2度目や」。ウトロに住む1世の姜景南さん(90)の言葉だ。
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