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〈特集・ウリハッキョの今、70年の軌跡〉豊橋初級/家族のような安心感に包まれて

愛知県南東部に位置する豊橋市。三河湾を望む一帯は三河地域と呼ばれ、豊かな自然に恵まれている。豊橋駅からほど近い場所にある柳生町には、同胞たちの歩みとともに歴史を積み重ねてきた、豊橋朝鮮初級学校がある。

現在豊橋初級に通う児童たち

現在豊橋初級に通う児童たち

朝鮮人集落に国語講習所

愛知県は戦中、軍都として知られていた。そのため、朝鮮人強制連行に関しては、他地方のように炭鉱やダム工事現場よりも名古屋などの都市部の軍需工場に集中していた。豊橋周辺では、豊川海軍工廠をはじめ、大崎飛行場など各所で、多数の朝鮮人徴用者の存在が確認されている。同胞たちは貧しさと強制労働、民族的迫害にあえいできた。

大崎朝鮮人小学校創立3周年に際して撮られた記念写真

大崎朝鮮人小学校創立3周年に際して撮られた記念写真

解放後、豊橋の同胞たちは子どもたちに母国語を学ばせようと、朝鮮人集落があった大崎、花田、向山、小坂井などに国語講習所を設立。それらは後に、学校としての体系を整えていった。

小坂井の国語講習所に通ったという柳政一さん(84)は、当時、10歳から18歳くらいまでの子どもたちが共に学んでいたとふり返る。教科書のようなものはなく、朝鮮語の読み書きができる大人が教えたという。

柳政一さん

柳政一さん

しかしその後、米日当局による在日本朝鮮人聯盟(朝聯)の強制解散(49年9月8日)に次ぐ「朝鮮人学校閉鎖令」の発令(同年10月19日)によって、同胞たちの民族教育は厳しく弾圧された。子どもたちは日本の小・中学校への転入学を余儀なくされた。しかしこのような中でも、校内での「特設学級」(課外授業)という不十分な形ではあったが、同胞の子どもたちに朝鮮語や歴史などを教える取り組みは続いた。

55年の総聯結成は、民族教育が新しい段階へと発展する契機をもたらした。豊橋では59年、大崎にあった愛知朝鮮第11初級学校に中級部を併設し、現在の学校所在地である柳生町に移転。この時から校名を豊橋朝鮮初中級学校に改称した。同年、在日同胞の帰国事業が始まった。

「豊橋は帰国する同胞が特に多かった。当時、ひどい民族差別によって朝鮮人には働き口がなく、生活が苦しかったから、子どもたちの将来を考えての決断だったのではないか」(柳さん)

帰国の途に着くまでの間、子どもたちに母国語を学ばせたいと、民族教育に対する同胞たちのニーズはいっそう高まった。60年代に入ってから、児童・生徒数はぐんと増えた。

当時、同校に子どもを通わせた韓聖福さん(90)は、教育会会長として学校のために尽力した。慶尚南道蔚山に生まれ、生活苦から14歳で渡日した韓さんは、古物商を細々と営んできた。生活は質素そのものだったが、子どもたちの教育に対しては並々ならぬ関心を注いできた。

韓聖福さん(右)と妻の玉命斗さん

韓聖福さん(右)と妻の玉命斗さん

妻の玉命斗さん(83)はこうふり返る。「夫は私に内緒で、ステンレスの滑り台を買って学校に寄贈したこともあった。家のたんす一つも買わないような人だったから、びっくりした。家のことはいつもそっちのけで、ソンセンニムたちの給料の心配ばかりしていた」。

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