Facebook

SNSで共有

〈“歴史歪曲”の現場から〉福岡県飯塚市・無窮花堂

1世の受難、無窮花に刻む

国際交流広場内に位置する無窮花堂

国際交流広場内に位置する無窮花堂

無窮花堂をめぐる経過/「強制連行」問題視

2000年12月に、福岡県飯塚市庄司笠置ダム公園飯塚霊園内の国際交流広場に建立された朝鮮人納骨堂「無窮花堂」。1995年、故・裵来善さんの呼びかけから、筑豊における強制連行犠牲者納骨式追悼碑の建立運動が始まった。完成までの5年間、裵さんを代表にした「在日筑豊コリア強制連行犠牲者納骨式追悼碑建立実行委員会」は飯塚市当局と数十回にわたり協議を重ねた。結果、市は98年8月に①強制連行の事実を認め②歴史的事実を後世に残すことを認識し③国際交流・親善の一助になってほしいと市霊園地の一角を無償で貸し付けることを正式に回答、14日には共同記者会見の場で市有地貸付の覚書を実行委員会と交わした。建設費約3000万円はほぼ募金で賄われた。第2期工事として、2002年11月に無窮花堂のまわりに、朝・日の歴史を示す17枚のパネルによる歴史回廊が設置された。2014年5月20日に産経新聞で「飯塚市営霊園の敷地内『朝鮮人追悼碑』で『強制連行』などと避難」と報道されたのを機に、6月25日の市議会で無窮花堂に関する質疑が行われた。また「日本の植民地政策により、数多くの朝鮮人と外国人が日本各地に強制連行されました。ここ筑豊には15万人にも上る朝鮮人が炭鉱でヶ国な労働を強いられ、多くの人びとが犠牲となりました…」などの碑文に対して抗議が寄せられ、2015年9月8日には日本最大の右派組織「日本会議」福岡常任理事を含む地元住民らから、斉藤守史市長と鯉川信二市議会議長に対し、碑文の見直しに向け、「NPO法人無窮花の会」と協議するよう求める陳情書が提出された。


揺るぎない日朝友好の絆

「筑豊に無窮花が咲いた」――。2000年12月、福岡県にある飯塚霊園内の国際交流広場に朝鮮人納骨堂「無窮花堂」が設立された。小さな枝から根を下ろし、その花は毎朝咲きかわり、初夏から秋にかけて咲き続けるという無窮花。尽きることなく咲き誇るその不屈の姿は、日帝の植民地下で主権を奪われた朝鮮民族の自主独立の旗印であった。

DSC_3798s_R

15万人の朝鮮人や多くの外国人が強制連行され、炭鉱労働に従事させられた福岡県・筑豊の地。ここに眠る朝鮮人犠牲者は数千人に上るといわれる。その遺骨の大半は旧住友忠隈炭抗ボタ山麓の「無縁墓地」のように、山のふもとに野ざらしにされ、各地の寺には「朝鮮人」とだけかかれた骨壺が点在していた。

「あの時脱走しなければ、この異国の地で遺骨になっていたのは私だったかもしれない」。「無窮花の会」初代理事長を務めた故・裵来善さんの言葉だ。自身も佐賀県の川南造船所と福岡県の貝島鉱業所大辻炭抗に強制連行され、脱出し、解放の日を迎えた。94年から筑豊の墓地や寺院を訪ね、遺骨を収集し、過去帳に記されている10代~20代の若者の名前を見つけるたび、その遺骨は、自身の姿と重なった。50ヵ所ほどの寺院をめぐり、見つけた82柱の遺骨たち。「1日も早く明るい場所でねむらせてやりたい」。その切実な思いの結晶が無窮花堂だった。現在、無窮花堂には116柱の遺骨とともに、裵さんの遺骨が納められている。

「NPO法人無窮花の会」の中社正文理事(77)は「歴史の大きな視点に立って、理論と実践に沿って動くべきだ」と無窮花堂の建立、そして在日同胞の権利擁護に心血を注いだ裵さんの姿を記憶する。「行政との話し合いの際、担当者が『半島』という差別用語を使ったことがある。そのとき口をつぐみ、じっと相手を睨みつけた裵さんの表情が今でも忘れられない。粘り強い、信念の人だった」。

満州で敗戦を迎え、その後炭鉱近くの朝鮮人が多くいた「ハーモニカ長屋」に暮らしていた中社さんは「筑豊で貧しい暮らしをしていた人々は、当時の状況をつぶさに体験している。だからこそ、朝鮮人に対する差別感情よりも、同じ人間だという思いが強かった」と回想する。

そのことを裏づけるのが、麻生炭抗での朝鮮人ストライキだ。麻生太郎の祖父から父の代へと続く、筑豊地区で最も多くの朝鮮人を強制連行した麻生炭鉱では、1932年、労働条件や差別待遇に不満が募った朝鮮人抗夫たちが21日間にわたり、飯塚の曩(のう)祖(そ)八幡宮に立てこもりストライキを行った。この闘いを物心両面で支援したのが、地元の被差別部落出身者たちであった。中社さんは「劣悪な環境で差別を受けた彼らだからこそ、人間の尊厳を求め立ち上がった朝鮮人の気持ちが痛いほどわかったのだろう」とし、「日本人がこの問題に無関心ではいられない」と思いを重ねた。

民族運動の拠点

現在も無窮花堂では、在日同胞と日本市民らがともに追悼式を行い、朝鮮半島からも訪問者が絶えない。

碑の横に立つ無窮花の会・吉栁順一理事長

碑の横に立つ無窮花の会・吉栁順一理事長

しかし、麻生の地盤が強固なこの地域では、その分身グループから「無窮花堂は反日広場」などの声が上がっている。また、昨年6月25日に行われた第3回飯塚市議会では、碑文の見直しに賛同する藤浦誠一議員が「昔の怨念めいた話ばかりをですね、出されても…我々の親父たちの世代なんですよね、この(碑文の)文章を我々がずっと引きずってですね。この地で生活して、生きていかなきゃならない…耐えがたいことである」「本当に反日、嫌日、非常に政治色」などと批判。そして今年9月には、地元住民が碑文の見直しを求める陳情書を市長と市議会議長宛てに提出した。

NPO法人無窮花の会・吉栁順一理事長(67)はこの一連の流れを「記憶への反逆だ」と一蹴する。

無窮花堂建立当時、建立実行委員会の目標は行政の責務という観点から飯塚市と一体になって運動をすすめることだった。担当課との数十回に渡る交渉は、大きな歴史認識の違いを克服するための日朝間の歴史学習から始まり、碑文の文言においては一字一句すり合わせが行われた。吉栁さんはそれこそが「無窮花堂の強み」であり、毎年追悼会に市長からメッセージが寄せられていることが「市と無窮花の会の関係が世代を超えて築かれている証し」だと指摘する。

「将来仲たがいしないためには、過去の歴史をしっかりと認め、互いに何ができるかを考えなければ。そのシンボルがこの無窮花堂だ。この地に連れてこられ無残に亡くなった犠牲者の思いを伝え、再び戦争をしてはいけない。それを、この碑が教えてくれる」

2002年11月に無窮花堂のまわりに設置された朝・日の歴史を示す17枚のパネルによる歴史回廊

2002年11月に無窮花堂のまわりに設置された朝・日の歴史を示す17枚のパネルによる歴史回廊

また無窮花の会所属のある在日同胞は、無窮花堂を「朝・日市民はもちろん、総聯・民団の同胞たちが心を寄せる民族的な運動の拠点だ」と強調する。

1世の受難の歴史を風化させず、朝・日両民族の友好の絆を深め、新たな歴史を創造していく。裵さんが貫いたその思いは、無窮花が咲き誇るこの地に、今もしっかりと根を張っている。

(金宥羅)

関連記事