
1991年にオープンして以来、188万人が来館した「ピースおおさか」
アジア最大の兵器工場である「大阪砲兵工廠」跡地、大阪城公園内に位置する「ピースおおさか」。市民たちの平和への希求によって1991年にオープンして以来、188万人にのぼる人々に戦争の実態を伝えた平和資料館だったが、リニューアルを迎えた今日、その「設置理念」が有名無実化されようとしている。
「ピースおおさか」は、戦争の悲惨さを次世代に伝え、平和の尊さを訴えることを目的に大阪府と大阪市が共同出資した財団によって1991年9月17日に開館。1977年から13回にわたる市民団体の要請活動によって設立された「大阪府平和祈念戦争資料室」が前身となっている。開館以来、「戦場となった中国をはじめアジア・太平洋地域の人々、また植民地下の朝鮮・台湾の人々にも多大な危害を与えたことを私たちは忘れません」との設置理念のもと、日本の被害と、加害の歴史の両方を継承してきた。しかし、1990年代後半から、日本の加害行為を展示した展示室B「15年戦争」に対しての「自虐史観だ」などの府議・市議、右翼団体による抗議や大阪府知事の意向もあり、2013年4月、「ピースおおさか」は突如展示室Bを削除する今回のリニューアル案を発表。2014年2月には「展示にあたっての留意点」として「政府の統一的な見解を踏まえつつ」展示すると発表した。その後、2014年9月に一時閉館し、4月30日にリニューアルオープン。その際に、展示室B「15年戦争」の「朝鮮の植民地化」における皇民化政策や強制連行・強制労働を写真や図解などで説明した展示、「中国大陸への侵略」、「東南アジア諸国の受難」などの説明パネル、日本軍の加害行為に関する写真、資料数十点の展示が撤去された。「ピースおおさか」は、「子ども目線」「大阪中心」を打ち出し、大阪空襲に特化した資料館へと変わった。戦後補償問題や平和運動に取り組む10の市民団体は2013年4月28日に「『ピースおおさか』の危機を考える連絡会」を立ち上げ、加害展示の撤去に反対する署名1万2000余筆を大阪市の橋下徹市長、大阪府の松井一郎知事宛てに提出するなど、抗議活動を続けている。

大阪空襲に特化した資料館へと変わった。
「多様なものが相互に認め合い、同時に存在し得る平和な世界」を表した三角、四角形の屋根でデザインされた「ピースおおさか」。
Bゾーン「世界中が戦争をしていた時代」では、日清・日露戦争から敗戦に至るまでの経緯を動画で紹介。そのナレーションでは日本の植民地支配について「朝鮮では日本統治に対する抵抗運動が拡大する中、植民地化を進めた」「(戦争中)中国・朝鮮からも動員され、厳しい条件の中働いた」とだけ触れ、以前あった日本軍「慰安婦」についての記述は消された。また、南京大虐殺については「南京事件」と表現し、以前はなかった「通州事件」など中国側による日本の民間人被害について触れている。

大阪空襲死没者を追悼する銘板に並ぶ朝鮮人犠牲者の名前
戦争の実相をひた隠し、侵略戦争を正当化しかねない展示に関係者の危機感は募る。開館当時の事務局長、有元幹明さん(78、日朝国交正常化の早期実現を求める市民連帯・大阪共同代表)もその1人だ。
開館当初、「ピースおおさか」では中国、朝鮮半島、フィリピンなどアジア諸国の歴史観に関する企画展示を毎年行った。有元さん自らアジア諸国を回り、資料を集めた。その行動の原点は、「大阪砲兵工廠」のそばで生まれ育った少年時代。教員の指示で赤く塗りつぶした地図上の「日本の領土」が脳裏に浮かぶ。
「私も昔は軍国少年だった。有元君、学校行こかーと迎えに来る朝鮮人の友だちを内心見下していてね」。
敗戦を迎え、疎開先から戻ると、その関係は一変した。「いつもの調子でパーンとどついたら、『おれら、我慢してたんやぞ』と初めて殴り返された。解放された人間の叫びを聞いて、ハッと自分の行為の愚かさに気づいた」。人の価値観を左右し、容易に差別意識を刷り込む戦時教育の恐ろしさを身に染みて感じたからこそ、歴史教育にかける思いは切実だ。「なぜ朝鮮の子が自分の家の周りにたくさん住んでいたのか。身近な疑問から歴史を掘り下げると、日本の侵略史が見えてくる」。
日本の植民地支配により、大阪に渡った朝鮮人は木造の住宅に密集し居住していたため、空襲で極めて大きな被害を受けた。しかし「大阪中心」の展示には、同じ被害を受けたはずの「身近な朝鮮人」の姿も、彼らがなぜそこに存在したのかも記されていない。唯一、中庭の「刻の庭」に設置された大阪空襲死没者を追悼する銘板にだけ、日本人犠牲者とともに朝鮮人犠牲者の名前が彫られている。「日本の中から歴史を見るのではない。被害を受けた側を理解することから歴史の核心が見えてくる」。唯一残った被害の証しをなぞりながら、有元さんは語った。

ピースおおさか入口にある1945年の母子像(粟津潔 作)
戦禍の中を逃げ惑う母と子のイメージを基本に作成し、平和を祈念するとともに、戦争で犠牲になった人々への追悼の意味が込められている。
Cゾーン「戦時下の大阪のくらし」の一角に展示された、大きな菊の紋章の付いた奉安庫、愛国百人一首に教育勅語――。「戦争の時代、子どもたちはどう生きたか?栄養事情が急速に悪くなる中『立派な少国民』として戦争に協力し、空襲にも精一杯対応した子どもたちの姿を知ろう」との見出しが躍る。戦争激化の中で、国家主義、軍国主義的傾向を強めた教育に対する批判や、軍需物資が不足する中で犠牲となった市民の生活に対する国家の責任は問われず、戦争中の子どもたちのあり方を肯定し、賛美する展示に漂う「違和感」。「子ども目線」を謳い「残酷だ」「自虐的だ」と、加害の歴史をひた隠す展示から得られるものは何か。
元中学校教員の大村淳さん(68、朝鮮高級学校無償化を求める連絡会・大阪)は元来「ピースおおさか」は生徒たちにとっても教員たちにとっても「平和の学び場」として大きな役割を果たしてきたと振り返り、「加害の歴史を学ばせず、被害の側面のみを強調する新しい展示は『戦争は人を殺すもの』という意識を希薄化させてしまう」と危惧する。
「自国の誤りを反省し、二度と繰り返さないという歴史観は『自虐史観』などではなく、人道に基づいた歴史観だ」と主張するのは、考える連絡会の黒田薫さん(76)。1937年に大虐殺が行われた南京の地を訪れたとき、遺体が集団埋葬された土地から大人の骨に交じって発掘された1歳、2歳児の小さな骨。それを目撃した時によぎった「私が1年2年早く、南京に生まれていたらあの骨は私だったかもしれない」という衝撃。凄惨な虐殺の事実を覆い隠そうとする声が高まる中で「今を生きる人間として声を上げ続ける責任」を痛感する。
「安倍政権の積極的平和主義や平和支援活動の本質は『積極的戦争主義』であり『戦争支援活動』。国の使命というのは国民を飢えさせないことであり、戦争で人を死なさないこと」 「軍隊は国家を守るものであって、国民を守るものではないということは沖縄戦や関東軍など先の戦争を見れば明らかだ」。
敗戦70年を迎え、日本がいつか来た道へとひた走る中、「戦争の本質を伝えなければ」という差し迫った思いが関係者の胸に去来する。考える連絡会では、加害展示の復活を目標に掲げ、その手がかりとなる勉強会を継続的に行っていくという。
(金宥羅)