7世紀に入り、隋の統治者たちは高句麗侵略のために艦船を建造するなど、陸軍と水軍を整え、人民から軍費を取りたてようと血眼になった。
隋が戦艦建造にどれほど民衆を過酷に駆り立てたかということは、山東半島の海岸で人々を昼夜水中で働かせ、休む暇も与えないため腰の下に蛆虫が湧くほどで、当時は、死者が作業員の10名中3~4名に達したという事実だけをもってもよく分かる。
このように、隋は十年余り前に百万の大軍で第1次侵略を企てたが満身創痍となった教訓も忘れたまま、612年1月、歴史上まれにみる大規模な第2次侵略を開始した。
隋の煬帝は全国から駆り集めた陸軍113万3千800名を24個軍団に編成し、自らが直接率いる部隊は6個軍団に組織した。これに水軍がおよそ10万、後方兵種が戦闘部隊の倍だったというのであるから、総数3百万を超える大規模の遠征軍であった。
(当時、高句麗は東方において政治、経済、軍事的に最も強大であっただけでなく、歴史的に漢、魏、秦、燕など、強大国の侵入をその都度、成功裏に撃退して輝かしい勝利を収め、まさに10余年前には100万の隋侵略軍の侵入を撃破した誇らしい闘争の歴史をもっていた。それだけに、煬帝は侵略戦争の準備を進めるうえで、恥ずべき敗北の辛酸を二度と舐めないようにするべく、先ずは数の上で、また物的、技術的にも高句麗軍を「制圧」できる、前例のない大規模な侵略武力の準備に着手した。端的な実例として、610年に全国各地から兵士と軍馬を徴発したが、武器と装具類は全て新しく精巧に作らせ、軍馬は高い金で買い入れてでもその数量を満たすよう強要した。万一、数量が不足したり、品質が劣る時には容赦なく死刑に処すようにしたので、馬一頭の値段が10万銭にも達し、足りない軍馬の需要を満たすために山東地方に馬を飼育する専門官庁まで置くようになった)
隋の煬帝の出陣規模がいかに大きいものであったかは、侵略軍の最初の部隊がμ郡を出発した時から最後の部隊が出発する時まで実に40日もかかり、部隊と部隊間の距離が4里、隊列全体の長さが104里に達したことがよく物語っている。隋侵略軍が挑発した高句麗に対する侵略戦争は、動員された兵力数と軍需機材、その規模において当時まで世界的にその類例を見ない最大のものであった。
侵略軍は一気に高句麗を呑み込む勢いで進攻してきたが、いかなる威嚇恐喝も、勇敢で聡明な高句麗の人々には通じなかった。
この時は、嬰陽王が執権して23年になる年で、乙支文徳も大臣の地位に就いてかなり後のことであった。その間、乙支文徳は「国が強くなるためには軍隊の力だけでは足りず、全民が豊かに暮らし、国を愛する心がまた熱くなければならない」としながら、嬰陽王に幾度も真心をもって諌めた。
(朝鮮新報)