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尹東柱とともに2013-東京・立教大学で/望郷から理想へ、尹東柱の「故郷」

2013年02月22日 17:19 主要ニュース 文化・歴史

追悼セレモニーと講演

詩人・尹東柱の詩と生涯から歴史の真実と平和の大切さを学ぼうと17日、東京・池袋の立教大学内のチャペル(立教学院諸聖徒礼拝堂)で、「詩人尹東柱とともに2013」(主催=詩人尹東柱を記念する立教の会)が行われた。

チャペルには尹東柱の遺影が飾られた

尹東柱は、1942年4月、立教大学文学部英文科に留学。その後、京都の同志社大学に編入した。立教大学では、文学部100周年記念行事として2008年に「尹東柱の詩と信仰―立教時代に書かれた詩」をテーマに講演会を開催した後、毎年、尹東柱が福岡刑務所の独房で獄死した2月16日を記念して追悼セレモニーと講演、演劇などを行ってきた。

この日、チャペルに足を運んだのは約2,000人。1部の追悼セレモニーでは、厳かな雰囲気の中で祈りが捧げられた後、尹東柱の詩の中から「離別」「新しい道」「星をかぞえる夜」「序詩」など8編が朝鮮語と日本語訳で朗読された。そして、尹東柱が1943年の夏、同志社大学の級友たちと宇治川の川原で歌ったとされる朝鮮民謡「アリラン」を参加者全員で合唱した。

第2部では、福岡大学人文学部の熊木勉教授が、「尹東柱の詩の源流」をテーマに、彼の詩に現れた「故郷」に焦点をあてて講演を行った。

間島での暮らし

講演をする熊木勉教授

尹東柱は、1917年に北間島の明東村(現在の中国・龍井市智新鎮明東村)で出生し、幼少期を送った。朝鮮が日本の植民地支配下にあったその時代、間島は民族活動家たちの拠点であった。尹東柱にとって、彼が通った明東教会と明東学校は、いわば「民族」の源泉であった。熊木教授の話によると、明東教会は1906年、朝鮮人による新学校として、李相■らが中心となって設立した瑞書塾を前提としているという。瑞甸書塾は、李相■が1907年高宗の密使としてオランダのハーグで開催された第2回万国平和会議に派遣されたことから閉鎖されるに至るが、これに伴い、新学問と民族教育を中心とした瑞甸書塾の精神が明東教会と明東学校に引き継がれた。

また、尹東柱にとって伯父である金躍淵の影響も大きかったと話す。熊木教授は、「学校設立に多大な貢献をした金躍淵は瑞甸書塾と関係が深かったようだ。彼と瑞甸書塾の教員たちは、明東村の建設と教育理念に重要な影響を及ぼした可能性が高い。明東村では行事のたびに太極旗を掲げ、歴史と国語に力を入れ、常に朝鮮独立が意識されていたことが証言されている。キリスト教、新学問、民族主義、これらはまさに瑞甸書塾から引き継がれた明東学校の教育の柱であったと言えそうだ」と語った。

異郷暮らし

会場には約200人がつめかけた

しかし、1920年、日本軍による「間島大討伐」により明東学校は甚大な被害を受ける。学校が焼かれ、犠牲者も出た。当時、学校再建に向けて資金提供を呼びかけたのは日本の息のかかった人物だった。そして、学校では1922年から日本語教育が実施される。これは明東村の朝鮮人にとってあまりに屈辱的なことであった。熊木教授は、「当時、日本からの弾圧のみならず、社会主義運動の影響も明東学校を揺るがせた」と語った。1929年、明東学校は人民学校となり、同年9月には中国の公立学校に編入された。尹東柱が小学校に通ったのは、1925年から31年までで、「学校の存在が揺れにゆれていた時期」であった。熊木教授は、尹東柱が安定した環境の中にいることができたのは幼少期のわずかな時期に過ぎないと話し、「民族教育を誇る明東学校においてさえ、日本からの圧力や社会主義の波に飲まれ、設立当初からの学校の精神と異なる『矛盾』の中に置かれねばならなかった」と述べた。

理想を求めて

尹東柱は、幼少期を過ごした明東村を離れ、龍井、平壌、ソウル、東京、京都へと居住の地を転々とし、福岡刑務所でその生涯を終えている。彼にとって「故郷」はどのような意味を持っていたのだろうか。熊木教授は、彼の詩「故郷の家―満州でうたう」「しょうべんたれの地図」「もうひとつの故郷」などに書かれた「故郷」への思いを、「望郷」から「抽象性をおびた観念空間(=理想的空間)」として描かれていると指摘。それらは「明日」「朝」「かがやく天地」「私たちの光明」「春」などの言葉を通して表現されていると話した。

尹東柱が思い描いた「抑圧された民族が苦難から解放され、平和に暮らす民族共同体の確立」を求める朝鮮民族の旅は68年の歳月を経て現在も続いているようだ。

(金潤順)

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