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清水澄子・朝鮮女性と連帯する日本婦人連絡会代表・元社民党副党首死去、最期まで日朝国交正常化願い続け

2013年01月15日 13:18 主要ニュース 権利

朝鮮女性と連帯する日本婦人連絡会代表で、元社民党副党首、元日本婦人会議議長、平和フォーラム副代表の清水澄子・元参院議員が14日、肺がんのため死去した。享年84。葬儀は家族で行い、後日、偲ぶ会を開く予定。

2009年2月初めに肺がんと診断されて以来、入院、通院しながら抗ガン剤治療を受けていた。その間、朝鮮の洪善玉・最高人民会議副議長はじめ友人らからも見舞いの手紙が届けられた。4年にわたる壮絶な闘病だったが、日朝国交正常化、朝鮮の統一支持、在日朝鮮人の民族権利保障へのゆるぎない意志を持ち続け、全国各地の集会や講演に飛び回り、語り続けた。その情熱とエネルギーは最期まで衰えることはなかった。亡くなる2日前に病床に見舞った記者が手を握ると強く握り返し、「ありがとう」と声を絞り出してくれた。

清水さんは、昨年4月、「金日成主席生誕100周年記念日本準備委員会訪朝団」団長として訪朝、金正恩第1書記の下、新たなスタートを切った朝鮮の息吹に触れたことをとても喜んでいた。そして、「日朝国交正常化の実現において私たちの担う役割の重みをいっそう強く実感した」と述べ、日本の反朝鮮的な社会風潮を打開していかなければならないと指摘し、より広い国民世論を運動へ喚起していきたいと意欲を燃やしていた。

日本の軍事大国化阻止へ

振り返れば、清水さんの人生は、常に闘う人々とともにあった。女性解放運動から日朝国交正常化運動、「従軍慰安婦」問題、戦後補償問題、北と南、日本の女性たちが朝鮮の統一をめざして開いた「アジアの平和と女性の役割」シンポ、朝鮮学校への支援などあらゆる市民運動にエネルギュシュにかかわった。その半生は、幼少から青春期にいたる時期が日本の朝鮮支配・アジア侵略戦争に重なる。軍国主義と男尊女卑の風潮の中で抑えつけられ、学ぶ機会を奪われた戦争体験がある。さらに大阪大空襲で幼い妹と逃げ惑った悲惨な記憶。それが政治と運動の最前線で闘い続けた原点だった。

近年の清水さんの一番の気がかりは、メディアあげての「北朝鮮脅威論」を追い風に、日本の再軍備と武装化に突き進む日本の国家主義と軍事大国化の流れであった。その流れを断ち切って、日朝国交正常化を実現しなければという強い思いであった。

清水さんは、日朝の人々が真の友人になるために、日本がまず何をすべきかを考えていた。とりわけ、高校無償化制度の対象から朝鮮学校の生徒たちを除外したことに強い怒りを表し、「人権無視も甚だしい」と述べ、「朝鮮学校に通う子どもたちに何の責任があるというのか」と厳しく問いかけ、「私たちは子どもたちを標的にしてこのようないわれなき差別政策を続ける日本政府、自治体の仕打ちを黙認する社会のあり方を、人間として我慢することができない」と語りかけ、共に立ち上がろうと強く訴え続けた。

戦前に生まれ、軍国日本が人々の権利を抑えつけながら、海外侵略の道を突き進んだかを骨の髄まで知り尽くしていた清水さん。その一番の気がかりは「拉致、ミサイル、核」をふりかざし、平壌宣言を事実上反故にしながら、反朝鮮騒動を繰り広げる現代日本の変わらぬ姿だった。

「今の日本は帝国主義の時代とちっとも変わっていない。朝鮮の人工衛星打ち上げについても、政府が『ミサイル発射』だと決めつけ、メディアが煽り立て日本中が大騒ぎしている。まるで戦時中と同じように一色に染まり、簡単に騙されてしまう。国民の意識の底にあるのは、『お上には抵抗しないことが一番利口だ』という非常に姑息な感情である。民主主義の基本は、それぞれが主張しあうべきなのに、みんな、沈黙してしまう。お上が『右に倣え』といえば、みながなびいてしまう。政府と国民は結局のところ共犯者ではないだろうか」と警鐘を鳴らし続けていた。

「私たち戦争世代は、どこから見てもアジアに対する加害者。敗戦後も自らの力で戦争責任を果たさず、平和運動においても植民地支配への反省と謝罪という歴史認識が欠如していた。でも、朝鮮問題に関わって、日本人や政府の思想的構造が見えて、何よりも自分自身の人間性や正義を取り返すことができるような思いがした。だから、もっとがんばらねばと思うようになった」

女性たちと深い交流

99年と04年には女性ばかりのピースライン訪朝団を率いて、女性たちとの連帯集会を平壌で開いた。「北朝鮮脅威論」「経済制裁論」が圧倒する当時の世論。女性たちを乗せた「万景峰92」号が新潟を出航する際は右翼の嫌がらせにあい、騒然となった。それに一歩も怯まぬ女性たちの平和と日朝の国交正常化を求める力強い声は、朝鮮の人々の心を熱く揺さぶった。

また、02年の9.17以降、日本各地で開かれた大小の集会には講師として招かれた。主催者は同胞や日本市民たち。月平均すると10回以上の講演をこなす日々だった。「何だか参議院議員時代よりも忙しくなって。東京にいる時も、それぞれの市民運動の勉強会、会議、打ち合わせに出たり、家でゆっくりする間もない」と。

約70年と長きにわたる運動の日々。ただの1日も家でゆっくりした日はなかったに違いない。その視線はいつも社会の弱者に注がれ、差別される人たちの側にあった。

「私の人生において、女性運動、平和運動、とりわけ日朝友好運動を通じて、多くの在日朝鮮女性たち、朝鮮民主主義人民共和国の女性たち、そして韓国の女性たちと人間的に知り合い、多くのことを学ぶことができた。とくに分断時代を生きる人々の統一への強い意志に感動した。とりわけ、在日の人々と同じ志を持ち、ともに闘い、励ましあった。そのことは私の人生の最大の誇りであり、幸せであったと思っている」。その人間味あふれる豊かな体験に触れさせていただいたことは、記者としての私自身の貴重な宝物であった。

(朴日粉)

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