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〈ハングルの旅 16〉ハングル普及で投獄、拷問、獄死

2012年10月22日 14:07 文化・歴史

「朝鮮語学会事件」

朝鮮語学会は、1921年に周時経の弟子たちが中心となって結成した朝鮮語研究会を1931年1月10日に名称変更した団体である。朝鮮語学会は、日本の植民地下で朝鮮語の研究と朝鮮語を通した民族運動を展開し、ハングルの普及に大きな功績を残した。

しかし朝鮮語学会の活動は、度々日本の官憲によって弾圧を受けることになる。第二次世界大戦の末期に入り、朝鮮人を「皇軍兵士」として兵役や徴用に駆り立てるために朝鮮総督府が推し進めていた創氏改名や神社参拝、「国語(日本語)常用」運動などによる「皇民化」政策の実施において朝鮮語学会の民族主義的な活動は目の上のたんこぶのような存在であった。そのため朝鮮総督府は、朝鮮人の民族語文運動を弾圧するために「朝鮮語学会事件」を捏造したのである。

朝鮮語学会再建時の写真

事件は1942年7月のある日、咸鏡南道の前津(チョンジン)という小さな鉄道駅で起きた出来事に端を発した。乗降客を臨検するため駅に来ていた深沢という日本人の刑事が、ある朝鮮人青年の挙動を不審に思い、警察署に連行して審問した。その後、青年の家に向かった。ちょうどその時、夏休みで帰省していた青年の姪の部屋から、この女学生の日記帳を発見した安田(安正黙)という刑事が、日記に「国語を常用する者を罰した(日本語を使用して処罰されたという意)」と書かれているのを目にした。女学生が通っていた学校(永生女子高等普通学校)では「国語常用」に逆らう教育を行っていると疑った警察は、この女学生やその友人たちから事情聴取を行う中で、二人の先生が反日的言動を教室で繰り返していたという供述を引き出した。このうち丁泰鎮という元教員は、朝鮮語学会で朝鮮語辞典編集事務に携わっている人だった。日本の警察当局は、「国語(日本語)常用」運動を展開しながら朝鮮語使用を禁止していた朝鮮総督府の施政下において、民族語文運動を展開していた朝鮮語学会を弾圧しようと、丁泰鎮を「証人」として洪原警察署に出頭することを命じた。こうして丁泰鎮は拘束され、取調べを受けた。そこで彼は「朝鮮語学会が民族主義者の集団である」と供述した。この供述を口実にして「朝鮮語学会事件」を捏造したのである。

1942年10月1日に朝鮮語学会の幹部である李克魯(リグンノ)、李煕昇(リヒスン)、崔鉉培(チェヒョンベ)、金允経(キムユンギョン)、韓澄(ハンジン)、李允宰(リユンジェ)ら11人の朝鮮語学者が検挙されたのを皮切りに、1943年1月までに33人の会員が治安維持法違反として検挙投獄され、拷問を受け、裁判に付された。予審の最中、李允宰は1943年12月8日に、韓澄は1944年2月22日に、それぞれ50歳代後半の年で拷問と飢えと寒さに耐え切れず獄死した。1945年1月16日に判決が下され、1945年8月13日に刑が確定した。

予審終結決定書には「民族運動の一形態としての所謂(いわゆる)語文運動は、民族固有の語文の整理統一普及を図る一つの文化的民族運動たると共に、最も深謀遠慮を含む民族独立運動の漸進形態なり」(注:ひらがなは決定書本文では片仮名)という文から書き始めている。朝鮮語の整理統一と、その普及を図る朝鮮語学会の活動それ自体が「民族運動」であると共に、「民族独立運動」であるとみなして弾圧を加えたのである。

朝鮮語学会は朝鮮語の規範化とその普及のために、1927年に雑誌「ハングル」を刊行した。また言語規範を統一するため、1933年に「ハングル綴字法統一案(한글맞춤법통일안)」、1936年に「査定した朝鮮語標準語集(사정한 조선어표준말모음)」、1940年に「外来語表記法統一案(외래어표기법통일안)」などを制定した。そして1929年に朝鮮語辞典編纂委員会を設置して、これらの言語規範に基づき辞典編纂事業を進めたが、初版の校正刷りが出る1942年に「朝鮮語学会事件」が起こり作業は中断された。しかし、日本の植民地下での過酷な弾圧を耐えた朝鮮語学会の朝鮮語研究者たちによってハングルは守られ、広く普及されることになった。押収された辞書の原稿はしばらく行方が分からなかったが、解放後の1945年9月8日、ソウル駅前にある運輸会社の倉庫の中から発見され日の目を見ることができたのである。

「朝鮮語学会事件」は、日本の「皇民化」政策が地球上からの朝鮮語の抹殺、朝鮮民族の抹殺を企てた許しがたい民族抹殺政策であったことを如実に物語っている。

朝鮮語学会の活動を感動的に描いた実話小説「민족의 얼 (民族の魂)」が朝鮮で出版されている。一読されることをお薦めしたい。

(朴宰秀、朝鮮大学校朝鮮語研究所所長)

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