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〈取材ノート〉被災地にいた記者として

2012年02月01日 17:42 コラム

東日本大震災からもうすぐ、1年が経つ。震災直後から宮城県を中心に計50余日間、現地で取材した。震災は大切なものを多く奪った反面、それまで見えにくかったものを気づかせてくれた。

取材ノート被災地では、水が出る、電気がつく、食べられることがいかに大変なことかが分かった。困難に直面して、「君も一緒に歌おう」と歌を歌って乗り越えていく前向きな人もいれば、今後について途方に暮れる人がいたのも事実だ。

そんな不安やストレスを抱えた同胞を温かく包んだのが、長期にわたって避難所の役割を果たしたウリハッキョであった。人も物資も集まる学校があったからこそ、助かった人、ピンチを乗り越えた人がいた。朝高卒業以来、同胞とかかわりを持てなかったある沿岸地域の同胞は震災後、救援物資を受け取ると、「チョーゴ」「タンギョル」などと忘れかけていた朝鮮語が一語ずつ頭に浮かんだと言い、家の清掃をしてくれた活動家、青年たちの手をぎゅっと握っていた。独り身の自分を忘れず探し出してくれた組織への感謝を述べ、今後は同胞の集いに参加したいとも語った。学校が同胞と同胞、日本市民をつないでいた。

一方、各地の朝鮮学校の生徒数は減少傾向にある。存続の危機に直面している地域も少なくない。学校がなくなった後に嘆いても仕方がない。今できることは、いっぱいある。震災直後に被災地にいた記者として、学校を守ろうと奮闘する人たちの活動を紙面を通じ鼓舞していきたい。学校を後世に引き継がねばとあらためて感じる新年だ。(東)

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