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〈人物で見る日本の朝鮮観〉中野正剛(上)

2005年04月11日 00:00 文化・歴史

中野正剛(1886-1943)は言論人にして政治家であるが、人物評価の面では難しい側面を併せ持った人物である。

初期は護憲派として藩閥政治やこれと連なる政友会を批判し、また、寺内総督の朝鮮統治政策を激しく非難するだけでなく、対独参戦やシベリア出兵に反対するなど、その言論活動は大いに世の注目を集めたものであった。その中野が1930年代、ことに1931年9月の満州事変以後、急速に右翼化を強め、1937~38年にかけてのイタリア、ドイツ訪問で、ムッソリーニ、ヒトラーと会見してからは、日本のファシズム運動の先頭に立つ。そして日独伊三国同盟を推進し、「米英撃つべし」の旗ふりをやる。故に、1941年12月8日、東条内閣が太平洋戦争に突入した時、中野はその本拠東方会本部で万歳を連呼したものである。しかし、東条が軍事的ファッショ統治を強化し、漸次中野や東方会をしめつける方策を取り始めるや、中野は俄然、「東条は誤った方向へ国を導く」と反東条へと態度を一変させる。これより、権力を一手に握った東条と、東条内閣打倒に向けた中野の壮烈な闘いが展開されることになる。1943年10月、中野は検挙され、6日後釈放されるも、その深夜、自邸の居間で割腹自殺を遂げる。中野正剛は東条の独裁的政治に抗して自決した、と評される所以である。しかしながらこのように政治的振幅の激しい中野には1910年代、20年代を通して、実に際だった朝鮮認識を示した人物であった。ここではその朝鮮観の核心部分は何であったかを見ることにしたい。

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